プロローグ ~女神一輪~


 丑三つ刻。ぬめり、と肌に生温い空気が纏わりつくような蒸し暑い夏の夜。月は出ておらず、深淵が我が物顔で蔓延る真夜中だった。
 不快感と奇妙な薄ら寒さとで首筋を粟立てつつ、俺は墓地に足を踏み入れた。疎らに設置されている街路灯に照らされた墓石が物恐ろしさを演出している。
 自らの呼吸と足音だけが聞こえる中、整列する墓標の間を縫ってゆっくり奥へと進む。いつもはうるさいくらいに鳴いている虫も息を潜めているのか、まるでこの場所だけ世界から隔離されているように静かで、それが気味悪さを増長させていた。
 慎重に歩いていくと、小さい墓地なのか墓石の並びはすぐに終わり、眼前に竹林が現れる。乱立する竹の隙間に深い暗闇を湛えた林は、来る者を拒絶し、また招くように佇んでいた。
「ご指名の通り来てやりましたよー……」
 辺りを見回し、誰もいない空間に声を発するも、それは闇に呑まれて消えていった。
 もちろん返事はない。こんな時間、こんな場所にいる人間などそうはいないから当たり前だ。
 そう、人間ならば。
 重たく、湿った風が竹林に吹いた。ザアザアと木々が騒ぎ蠢き、言い様もない気持ち悪さに襲われる。この真っ暗な林から何かが出てくるのではないか。不安に駆られ、心臓が早鐘を打ち始める。
 そうして風が止み、再び周囲は静寂に包まれる――はずだった。
 茫、と竹林の中に火が燈る。青白い灯りが一つ、また一つとその不気味な光を拡げていく。
 鬼火。現代科学ではプラズマによるものと唱えられている未確認発光物体である。
 揺らめく炎を驚き見つめていると、鬼火はその数を増やし、勢いを強めて竹林の常闇をより濃く浮かび上がらせた。
「……あ」
 開ききった口から声が漏れ出た。自分でも気付かない内に一歩、また一歩とその場から退いてしまっている。
「なんだ、こいつら」
 それはまさに、百鬼夜行の光景だった。
 甲高い怪鳥のような鳴き声。低く地を這うような唸り声。怨念のこもった呻き声。無明の闇から突如として生まれ出した声が世界を侵食していく。日常から非日常へ、瞬く間に遷移していく。
 闇の淵から湧いてくるそれらに際限はなく、得体の知れない物への恐怖が滲み出す。
 魑魅魍魎、妖怪変化、鬼屍人。様々な化け物が無数に集まって林を埋め尽くしていた。
「いくらなんでも……」
 多過ぎる。想像を超える数の怪物に気圧されてしまう。
 妖怪大戦争でも始めるつもりなのか。その妖怪軍と戦うのが俺なのだから笑い事ではないのだが。
 他人事のように笑いだす膝を叱咤し、なんとかその場に踏みとどまる。焦りを表に出しては駄目だ。暗闇から現じたそれらを睨め付ける。向こうもこちらの動きを伺っているようだった。
 膠着したこの緊張状態がいつまで続くのかと思ったが、それは一人の老人らしき人影が竹林から歩み出てきたことで少し緩和される。その老人は杖を突き、いかにも好々爺といった風な面持ちで俺の前に立った。
「安倍明治(あべ あきはる)殿とお見受けするが。如何かの?」
 しゃがれた声を老人が発した。
 背丈は俺の半分ほど。折れ曲がった腰と、背中まで伸びるでかい頭蓋骨が特徴の爺さんだった。
 その人間離れした風貌は、まさに妖怪。
「あんたが呼び出したんだろ、ぬらりひょん」
 震えそうになる声を噛み殺しながら挑戦的に返すと、目の前の老人はニヤリと口元を歪める。
「可笑。いかにも。……明治殿よ、早速本題に入らせてもらうが」
 老人はこちらを見定めるように勿体振ってから、一つの提案を出した。
「我々と組まないか? お主の力と我らの軍勢があれば、人の世など容易く手中に収められるぞ」
 ぬらりひょんは皺だらけの手で宙を握り潰した。その背後には怪異の大群が控えており、俺の返答を待っている。
 ……確かに。これだけの物量ならば侵略も簡単だろう。世間は混乱と恐怖に叩き込まれ、それを支配出来るだけの力もありそうだ。加えて、俺の力――安倍一族に代々受け継がれてきた陰陽道の力があれば、事がさらに簡単に運ぶのは間違いない。
 などと考える振りをしばらくした後、顔を上げてぬらりひょんへ不敵に笑いかける。
「悪くないね」
「当然じゃて。ならば、受けてくれるか?」
 老人が一歩近付き、右手を差し出してくる。同盟成立の握手を求めているようだ。
 俺も一歩前に出て、ぬらりひょんが開いている手を、
「でも残念。交渉不成立だ」
 思い切り払い除けた。
 老人が目を剥いてたたらを踏む。
「き、貴様! 判っておるのか! この申し出を断るということは……」
「残念だけどさ」
 ぬらりひょんの怒声を遮って、俺は傲岸不遜、高慢無礼に言い放ってやった。
「俺の夢は世界征服。目的が同じあんたらは邪魔なのよ」
 おまけにビシっと指まで突き付けてやる。
「なんと! 可笑、面白い小僧よ! これだけの数の妖怪を前にして、そんな世迷言をぬかしおるとは。貴様に選択権はないということを承知しておらんのか?」
「へぇ、どうするつもりだよ」
 左手を背後に回し、尻のポケットに忍ばせていたお札を抜き出す。
 見るまでもなく、数は圧倒的に不利。ここは逃げることだけに集中しよう。
 頭の中で逃走作戦を考えつつ、今にも飛び掛ってきそうな化け物らを睨み据える。
「ここでお主を殺し、人間界を手に入れるための景気付けにさせてもらうとしよう!」
 ぬらりひょんが腕を振るや、竹林から数多の化け物が叫び声を上げて飛び出してきた。赤鬼や骸骨、火車や鎌鼬など、他にも見たこともない異形が群れを成して押し寄せる。
「疾ッ!」
 そいつらに向かって、左手のお札を奔らせる。塩で清め、俺の力と念を込めておいた特製の退魔札である。少しでも触れようものならば、
「グギィィィアアアァァァ!」
 赤鬼が大声で呻いた。札が当たった右腕が消滅している。効果は抜群だ。
 俺はさらに札を投げ、追手を無力化しながら墓地の入り口を目指す。
 しかし、化け物たちも一筋縄ではいかない。天狗と化け提灯が空を飛び、上から襲い掛かってきた。
「護防星!」
 冷静に右手の人差し指と中指を重ねて立て、星の形に頭上をなぞる。すると、降下してきた天狗らが見えない何かに弾かれた。
 結界である。陰陽道ではセーマンと呼ばれる星型の障壁。自分と相手との境界に壁を作って……うんたらかんたら。一言で表すならバリアー。そう、バリアーです!
「ざまあみ……って痛ぇ!」
 再び出口に走ろうとしたが、硬い何かに肩をぶつけた。勢いを殺され、その場に尻餅を搗いてしまう。
 まさか相手も結界の類を使えるのかと見上げると、そこにはいつの間にか壁が佇立していた。
「よくやったぞ、ぬりかべ」
 ぬらりひょんに背後を取られた。それだけでなく、全方位を無数の妖怪に囲まれてしまう。
「ここまでだったな、安倍明治」
「くっ……」
 持っていた退魔札は使い尽くしてしまい、結界を張ってもこの物量差では打ち破られてしまうだろう。絶体絶命とはこのことか。
「終わりじゃな。皆の衆、喰い破れ!」
 ぬらりひょんの号令で、妖怪の波が俺を飲み込んだ。
 凄まじい衝撃が来るだろうと目をきつく閉じて身構えていたが、それは一向に訪れない。
 その代わりに、威勢のいい叫びと風を切る轟音が俺の耳朶を叩いた。
「とりゃとりゃとりゃー!」
 刮目して顔を上げると、目の前に少女がいた。その背丈には不釣合いなほどの大きい棍を軽々と振り回し、取り囲んでいた妖怪を薙ぎ払っている。
「イツキか!」
 助かった。安堵から溜め息が漏れる。
「アキハル、怪我はないか?」
 肩越しにイツキが俺の身体を気遣ってくれる。それに起立で答え、
「あぁ! よし、このまま殲滅するぞ」
 形勢は完全に逆転した。妖怪たちはイツキが振るう棍に次々と弾き飛ばされている。俺も結界を張って勇敢な少女を援護する。
 こっちには神様が憑いているんだ、有象無象の化け物なんかに負けるはずがな……い?
「お、おいイツキ。俺が後ろにいるってことを忘れてない、よな?」
「せやせやせやー!」
 聞こえていなかった。笑顔いっぱいに異形を薙ぎ倒す少女は、振るっている棍を勢いよく一回転、二回転。その豪快な棍捌きのままこちらを振り向いて。
「せりゃー!」
「ぶぼっはぁぁぁあああ!」
 俺の脳天に巨大な棍が打ち据えられた。
 目の奥で星が瞬き、意識が消えていく。あ、こりゃ駄目だ。
「……あ。アキハルーっ! 誰にやられたんだー!」
 お前だ、お前。この馬鹿力神様が……っ。
 能天気そうに覗き込むイツキの顔を最後に、俺の視界は暗闇に落ちた。

第一章