第一章 ~女神降臨~ 中編


「いただきます」
 母さんと飛鳥、そして俺が唱和して夕食が始まる。向かいに座る母さんが作った和食が所狭しとテーブルに並べられ、腹の虫を刺激するように芳香を漂わせている。
「ふむふむ。そちのご母堂は料理上手なのだな」
 頭の上で胡坐をかいたイツキが、矯めつ眇めつ食事風景を眺めながら(見えないので予想)感心したように言った。
 普段の食卓では絶対にありえない違和感だが母さんはそれに構わず、飛鳥に「たくさん食べてねー」と煮物を勧めていた。
 どうやらイツキは一般人には見えないらしい。俺や飛鳥みたいな霊感がある人間の目には映るようなのだが、嫁いできた母さんにその手の能力は備わっていない。
 先ほど飛鳥に問い詰められたように今現在のやっかいな事情を説明しなくていいのは助かるが、もし俺がイツキと会話してしまうと白い目で見られかねない。ここは重々に留意せねばと自分を戒めておく。
 黙々と箸を口に運ぶ俺を余所に、飛鳥と母さんは仲睦まじく焼き魚を突いていた。
「おばさんの料理、とっても美味しい」
「あら。ありがとう飛鳥ちゃん」
 飛鳥がこうして食卓に座ることは稀にあるが、最近はご無沙汰だったので母さんもご機嫌だ。父さんは家にいることが少ないからいつも俺と二人だけだし。
「美味そうだの……」
 じゅるり、と頭上から唾液をすする音がした。間違っても垂らすなよ!
「あーん」
 と、飛鳥が魚を摘まんだ箸を俺に向けてきた。いや、正しくは俺の頭頂部に。普段はどこを見ているのか把握しづらい眼差しが、今は子猫を前にしたみたく好奇心でキラキラと輝いている。
「おい、飛鳥」
「あっ。つい」
 窘めると、飛鳥はハッとして箸を戻す。
「あああ、わちのオトトが」
 悲惨な声を漏らしながら、両腕を力なく揺らすイツキだった。姿は無論見えないが、振動でそんな気配がする。
 そんなやり取り――母さんはイツキが見えないし声も聞こえないので俺と飛鳥のだが――を無言で見詰めていた母さんが、唐突に箸を置いて手を鳴らした。
「飛鳥ちゃん、いつの間に明治(あきはる)とそんな仲に! 今晩はお赤飯の方が良かったかしら」
「良くないわ! あとそんな仲でもないから!」
「赤飯とな!」
 イツキ、お前は反応しなくてよろしい。お赤飯が好物なのか?
「おばさん、明治は私が幸せにします」
 飛鳥も悪ノリしてか、真面目な顔をして母さんの手を取るんじゃあない。
「まったく騒がしい」
 これ見よがしに息を吐いてから、湯気が立ち上る味噌汁を飲もうと口を付ける。
「むむっ。おい!」
 味噌汁を口に含んだ瞬間、イツキが俺の前髪を引っ張った。その勢いで仰け反り、熱々の液体が無理やり喉の奥へ流れ込む。
「あっづ! 何すんじゃい!」
 喉を押さえて咳き込みながら、食事の邪魔をする小さな式神に恨みの視線を送る。頭の上なので送れていないのが悔しい。
「気付かんか? すごい妖気だ」
「ああ?」
 突然独り言を喋りだしたように見える俺に、母さんが不思議そうにしているのには極力意識を裂かないようにして、周囲の気配を探った。
 俺には妖気を感じる髪センサーは搭載されていないが、首筋には夕方の小鬼の時のような痺れが走っている。
「明治」
 飛鳥も勘付いたらしく、俺の袖を控えめに握った。
「母さん、俺ちょっとトイレ」
「んもー。飛鳥ちゃんもいるのに。そんな変な風になるキノコとか出してないでしょー?」
 母さんのお小言を聞き流し、席を立って飛鳥にアイコンタクトを送る。
「(しばらく母さんを頼むぞ)」
 すると飛鳥も頷き、俺の目を見返してくれた。
「(イツキちゃん、可愛い)」
 よし、伝わっただろう。なにせ長い付き合いだからな、と自分で納得し、小声でイツキに話し掛けながら居間を出る。
「外か」
「うむ。かなりでかいぞ」
 玄関に近付くほど、身体に感じる圧力が高まっているように思える。
「わちの棍を忘れるなよ!」
 靴を取り出したところで、イツキが訓告を発した。
「棍? あー、あの物干し竿か」
「そんなことに使っておったのか!? 罰当たりな!」
 あ、やっぱり冒涜的な使用法だったのね。
 軽く反省しつつ、一度部屋に戻って物干し竿もとい棍を担いで外に出る。
「神社の入口か」
 戸を開けた途端、生温い風が肌を撫でる。嫌な感じが全身を舐めるが、頭上で踏ん反り返っている神様を思うと、少し気が紛れた。
 石畳と砂利が敷かれた境内を駆け、入口の鳥居を目指す。周囲には禍々しいほどの邪気が蔓延っていた。
「あれぞ!」
 イツキにペチンとおでこを叩かれ、視線が空に向く。と、入口に佇む鳥居の手前。そこにもやもやとした紫色の靄がかかっていた。そしてそれは次第に凝縮していって、巨大な影を形作る。
 何年も生きた巨木に似た太い足、筋肉で盛り上がった腕、岩石のような拳にはこれまた大きな金棒が握られている。顔の中心には血走った目が一つ、爛々と俺たちを見下ろしていた。目算で五メートルはあるだろうか。
 極大な一つ目の鬼が、突き出た牙を誇張するように咢(あぎと)を一度鳴らして吼えた。
「グルゥアァ――!」
 それを見たイツキが一言。
「まさに、鬼に金棒じゃな」
「駄目じゃん」
 下らないことを言っていると、大鬼が凶器を振りかぶり襲い掛かってきた。
「うわっ! おい、式神なら何とかしてくれ!」
 俺の叫声を皮切りに、イツキとの応酬が始まる。
「だったら元の姿に戻せぃ!」
「元の姿? どうすりゃいいんだよ!」
「知らぬ! セイメイは自由自在だったぞ!」
「何をー!」
「余所見をするな!」
 文句を飛ばし合っている間にも大鬼が迫り、金棒は俺たち目掛けて振り下ろされる。それを辛くも回避しつつ、打開策は無いものかと考えを巡らせる。
「どうする……」
「おいアキハル!」
「痛い痛い! その呼び止め方禁止!」
 前髪を抜かんとする勢いで毎回毎回引っ張りやがって、ハゲたらどうする!
「あの物見櫓(ものみやぐら)はそちの部屋か?」
 頭上からてのひらに移動させたイツキが指差すのは、母屋の二階にある、確かに俺の部屋だった。
「物見櫓っていうかベランダだけどなっ。それが、どうしたっ」
 連続で降ってくる金棒を横っ飛びで避けつつ、イツキの真意を測る。
「わちをあそこへ飛ばすよう心象せよ! 不本意ながらそちの式神。その程度なら操作が効くはず」
「心象って、思い描けってことか?」
「うむ。戻し方をセイメイに直接訊ねれば良かろう」
「なるほど」
 眉間に皺を寄せ、手の上のイツキがベランダまで飛んでいくよう念じる。
「その感じじゃ!」
 イツキの身体が浮き始め、
「行け、イツキ!」
 俺の掛け声と共に、ぽてん。と再び手中に収まった。
「………………」
「………………」
「グゥオアアァ――!」
 一時停止した俺の真横に、大鬼の金棒が叩き付けられた。
 地面を抉る衝撃で砂利と土が巻き上がり、俺は身体ごと吹っ飛ばされる。その拍子に、掴んでいた三昧耶形の棍も手放してしまった。
「ぐ……。ちくしょー、痛ぇ」
 ごろごろと転がって服を汚しながら顔を上げると、大鬼は追撃のためかこちらに大股で歩み寄る。
「何をしておるかこの役立たず!」
「いや、一所懸命に念じたんですけど。飛ばないじゃん!」
「そちの力が足りん! セイメイはお茶の子さいさいだったぞ!」
 そう言われ、晴明のドヤ顔が想起される。
「ものすごく腹立たしいな」
 またあいつに文句を垂れられるのは癪だ。なんとか自力でこの状況を切り抜けたいが。
「このままではジリ貧だぞ!」
「分かってる!」
 振るわれる金棒は単調だが、その威力ゆえに避けるだけで精一杯だ。余波を受けた俺は膝や腕を擦り剥いて全身ボロボロ。対する大鬼は傷一つなく、俺を殺そうとただ無慈悲に武器を猛打し続ける。
 早くも二回目の絶体絶命となるが、そこに介入者が現れた。
「明治っ、大丈夫?」
 鬼を挟んで向こう側、珍しく焦ったように表情を険しくした飛鳥が駆けてきていた。
「飛鳥!」
「これくらいしか、出来ないけど……」
 飛鳥は食卓に置いてあった塩の瓶を開け、祈祷した後にそれを大鬼に振り撒いた。
「グ、ウウウウゥ」
 どうやら多少の効果があったようで、大鬼の攻撃の手が止まる。少し苛立ったような奴の一つ目が飛鳥を捉えた。
「飛鳥、逃げろ!」
「心配、ない」
 飛鳥はどこに隠し持っていたのか、木の札を取り出して自分の額にそれを当てた。
「憑依、椿!」
 そう呟くと、木の札から出た人魂が飛鳥の身体に侵入した。そして、飛鳥が豹変する。

「……これまたすごいことになってるわねぇ」

 普段の飛鳥とは違う、艶めかしく豊満さを含んだ声。
 雰囲気を突如として変えた飛鳥だったが、大鬼は躊躇わずに握った金棒を振り下ろす。
「あらあら。野蛮なことね」
 余裕綽々に吐息を漏らす飛鳥の姿が掻き消えた。と思ったら、俺の真横に立っていた。
 飛鳥ではなくなったその人は、腰の辺りで髪を束ねていたリボンを解いた後、今度は後頭部で髪を結び直しながら再会の挨拶をくれた。
「久しぶりねぇ、明治くん。飛鳥との仲はどうかしら?」
「椿さん。どもっす。ちょっと今それどころじゃないんですけど」
 つれないわねぇ。と魅惑的に髪を耳にかけてポニーテールを完成させたのは、飛鳥の姿を借りた別人だ。彼女は飛鳥に協力する霊体の一人で、名前は椿。生前はくノ一だったらしい。
「とりあえず、あれの注意をしばらく惹き付けてもらっていいですか?」
 こちらを振り向こうとしている大鬼を示しながら、妖しい雰囲気を漂わせる椿さんに懇願する。
「んー。どうしよっかなー」
 しかし、椿さんは焦らすように唇の下に指を当て、上目遣いで俺を見た。
 飛鳥の姿でそういうことを、いつもとは違った表情をされると、なぜかどぎまぎしてしまう。視線を逸らしながら「お、お願いしますよ」と再び頼むと、渋々だが了承してくれた。
「明治くんのお願いなら仕方ないわね。おねーさん張り切っちゃおうかな。相手が相手だし」
 椿さんは腰を屈めて砂利の中から比較的大きな石を拾うと、またもや姿を消して今度は大鬼の真下に移動。気を取られた鬼が下を向くと同時、血走った一つ目に石を投擲した。
「グァオオァァ――!」
 堪らず防御の姿勢に入った大鬼と、こちらに投げキッスをする椿さんを確認して、俺は母屋へと走る。
「ほう。あのアスカとかいう娘っ子は、なかなかの者を奉仕させておるの」
「あいつはあの力で熊とでも戦えるからな。それよりお前の方はどうなんだ。元の姿とやらに戻せば強いのか?」
 疑いの目を手中に向けると、イツキは小馬鹿にしたように笑った。
「愚問。いいからさっさと元に戻せい」
「へいへい」
 生返事をしながら、母屋に走り寄る。背中側からは大鬼が金棒を振るう風音と、地面を破砕する轟音が聞こえていた。
「早くあいつをなんとかしないと……!」
「騒ぎがご母堂にも知られてしまうぞ」
 そうだ。家の中には母さんがいる。こんなことに巻き込みたくはないし、危険に晒されていると知られたくない。
「玄関から入るのは避けたいな……」
「ならばやはり、あそこからじゃな」
 二階に備えられた俺の部屋のベランダ。イツキをあそこまで飛ばすしかないか。
 てのひらに乗せたイツキが浮上するイメージを抱く。
「もっと気合を入れよ!」
「やってるって!」
 イツキに叱咤されるが、しかしその小さな御身は一向に飛ばない。
「早くせんか!」
「ぐううう。あーもう! まどろっこしいわー!」
 耐えられなくなった俺はイツキの身体を握りしめ、豪快に振りかぶって無理やり飛ばした。つまり、ぶん投げた。
「何をするぅううううう!」
 弧を描いて飛翔したイツキは、ベランダに無事着地した。ということにしておこう。
「覚えておれよ貴様!」
 恨み言が聞こえたが、他に方法が無かったので仕方ない。必要悪というやつだ。
 しばらく見上げていると、イツキが飛び込んでいった放物線をなぞり返すようにして、待ち焦がれた書物が落下してくる。
「よし。ナイスキャッ、ち!?」
 占事略决を受け止めたのに続き、イツキも俺の頭上に降ってきた。頭頂部にイツキの履いた下駄が突き刺さる。
「痛いじゃねーか!」
「ふん。自業自得だわい」
 ざまあみろ、と悪態をついたイツキはひらりと地面に舞い降りる。
 たんこぶが膨らんだ頭に手をやってから、式神を使役する五つの方法の、真言の頁を開いた。
『どうやら苦戦しているようだな』
 記憶するのが一筋縄ではいかない片仮名の列記を暗唱していると、晴明が例によってドヤ顔で浮揚してきた。
「全く戦いになっていないけどな。あんなのがこれからも襲って来るって言うのか?」
『そうだ。故に、真言くらい暗記しておけ。お前とイツキの場合は仮契約の状態だからな。具現化には真言が毎回必要になる』
「具現化?」
 俺が疑問を表すと、イツキが答えた。
「わちを本来の姿に戻すことだの。さ、手早く真言を唱えよ」
 入口の方では大鬼の攻撃を回避し続けている、椿さんを宿した飛鳥の姿が遠目に映る。確かあいつの憑依術は三分くらいが限界だったはずだ。どことなくウルトラっぽい。なんて言っている場合ではなく。
「準備はいいか?」
「うむ。任せい!」
 気合一閃。頭に刻んだ真言を叫ぶ。
「オン ソラソバテイエイ ソワカ!」
 言い放った瞬時、地面にちょこんと起立していたイツキが輝きだす。召喚の時と同じ発光。強烈な純白が瞼を焼いた。
「成功か……?」
 俺が目を開けると、イツキの容姿は大きく変わっていた。いや、大きくは変わっていなかったが。
「え。ちっさ!」
「ちびくなーい!」
 てのひらサイズだったイツキの背丈は、俺の鳩尾辺りくらいまで伸びていた。それが元の姿ですか?
「そ、そちが未熟なせいでここまでしか大きくなれないのだぞ!」
『いや。我が召喚した折も、これくらいだったぞ?』
 口を尖らせて抗議するイツキだったが、それは晴明に一蹴された。
「………………」
「さ、イツキちゃん! 飛鳥を助けに行こうぜ!」
「変な気遣いをするな! それと、ちゃん付けするなー!」
 じたばたと砂利を蹴飛ばすイツキを宥めつつ、戦場に急いで復帰する。
 椿さんを身体に宿した飛鳥だったが、脂汗が額から垂れている。もう時間がない。
「ウグァルァアアア――!」
 ビリビリと鼓膜を震わす大鬼の咆哮で、ついに椿さんが足をもつれさせてしまう。足元には、俺が取り落としたイツキの棍があった。
「やば、おねーさんとしたことが……」
 前のめりに手を突いた椿さんは、体勢が崩れた影響で飛鳥の身体から弾き出されてしまった。
「あっ、憑依……が」
 飛鳥の痛ましい声が大鬼の振る金棒にかき消される。
「くそっ、間に合え!」
 長い長い距離に手を伸ばした俺の横を、一つの小さな疾風が駆け抜けた。
 大鬼が横薙ぎにした金棒が、飛鳥を打ち付けようとした直前。イツキが飛び込み、派手な衝突音を周囲に轟かせた。
「怪我はないか、アスカとやら」
「い、イツキちゃん……?」
 一瞬で棍を拾い上げたイツキが、その小さな身体で大きな金棒を防いでいた。
「ナイスだイツキ!」
「グゥ、ウウウ……」
 大鬼が鈍器を両手に持ち替えて振り抜こうとするが、それはピクリとも進まない。
「飛鳥!」
 その隙に、飛鳥に肩を貸して退避させる。
「明治、イツキちゃんが……」
「もう大丈夫だ。任せて悪かったな」
 疲れ切った様子の飛鳥を労い、イツキには発破をかける。
「頼むぞ、イツキ!」
「しかと眼を見開いておけよ、アキハル」
 打てば響く頼もしい返事で、イツキが応えてくれた。
「わちの大活躍を!」